▼受験観
– 受験は、基本的な頭の使い方を習得する、などのとても大事な側面がありますが、日本の受験というシステムを考えれば、あくまでもその本質は、“合格する”ことにあります。“合格する”が何を意味するのか、というのは性格によって異なります。私は慎重には慎重を期すタイプなので、合格点100点オーバーの合格を、多くの人は合格点20点オーバーの合格を狙うところでしょう。
– 目標を合格点100点オーバーに据えていたこともあり、受験は他人との競争というより、自分との競争というふうに認識していました。常に、昨日の自分よりも高い点が取れるように勉強をしていました。しかし、ここでストイックさを発揮しすぎた結果、鬱傾向になったこともありました。一方、人によっては、「合格点ちょい超え」を目標にする場合があるかもしれません。この場合は他人との競争という側面が強くなるかと存じます。
– 点数の伸びは、勉強量×質で決まります。受験で問われないことを勉強してもなかなか点数には結びつきませんし、かといって勉強量が少なすぎてもダメです。イメージとしては、tを勉強時間としてy = t*exp(t)のグラフのように、どこかに極大値があるはずなので、それを探りながら更に質をあげられるように考えていました。
▼記憶観
– まず記憶の重要な側面として、“記憶は思考のショートカットになる”ことだと思っています。もちろん、それぞれの科目に必須な基礎的な記憶事項はあるのですが、それと同じくらい、ショートカットとしての記憶を認識することが大事です。定石、典型問題の結果などが記憶されていることで、それがミスの発見につながったり、明快な解法につながることがあります。
– 理系科目については、身体記憶といえるまで、反射的に様々な事柄が出てくるようにするのが目標でした。公式や定石が身体記憶になっているのは言わずもがな、問題のタイプ別に、「自分はこういう場所で間違えやすい」という傾向までを体に覚えさせることで、問題を解いている途中に自分の「チェックリスト」のようなものが頭に浮かんできて、ミスを減らせるところまでやりました。
– 文系科目については、試験を乗り切るための記憶をしていました。古文単語は語呂合わせで覚えていましたし、地理の統計なども同様でした。このような覚え方は、時間効率はとてもよいですし、その記憶自体を問われる分には威力を発揮するのですが、どうしても解くスピードや応用力に欠けるため、二次試験の得点源になるような科目では使っていませんでした。
▼モチベーション観
– モチベーションは、成果=質×量において、量を上げる要素だと思っています。受験の一年間の間で、モチベーションの変動=勉強量の変動はありましたが、勉強の質を徐々にあげていったことで、結果的には一般的な受験生よりも高い成果を上げられたと考えています。
– 先述の通り、私にとって受験は常に”自分との戦い”でした。そのため、目標である合格点100点超えまでにいたるまでは、毎日「昨日の自分よりも頭が良くなった」、という実感を積み重ねることが、モチベーションにつながっていました。
– 成長の実感を得るために、いくつかのことを行っていました。まず、自分がその日使った計算用紙をすべて捨てずにとっておくこと。もちろん量だけでは学習効果は測れませんが、とても直感的に自分の頑張りが把握できます。次に、昨日の自分が間違えた問題を解き直すことを習慣にすることによって、まさに「昨日の自分よりも頭が良くなった」状態を作り出していました。
– 一方、夏模試の結果が出た秋頃には、自身の目標が達成されたことがわかってしまったため、モチベーションがとても下がりました。夏は7時間ほどだった一日あたりの勉強時間は、2時間ほどに落ちました。しかし、あくまでもモチベーションとは量を左右する要素なので、質を上げれば問題ないと考え、学校の先生に記述答案の採点をお願いする、など、それまで以上に実践的な勉強に軸足を移すことで、成果は落とさずにいました。
▼国語観
現代文
– 現代文は、「現代思想」を理解できているかによって大きく点数が左右される教科だと考えています。「人は、その人が生きている社会によってある程度規定されている」とする構造主義や、「人は、言葉によって概念を切り分けていて、概念は言葉以前には存在しない」とする記号論などを理解することで、入試現代文のほとんどは読めるようになってしまいます。(各思想については、とても大雑把な説明です)
– 東大現代文は現代思想の宝庫ですので、まずはしっかりと筆者の主張が汲み取れるようになることが肝要です。問題としてひねったものはあまり出ないので、現代思想の理解が直接得点につながると考えていました。
– 現代文に限らず国語は、どうしても文章・問題との相性が大きく点数を左右する科目です。勉強によって上がる点数の幅にくらべて、分散が大きいとも言えます。そのため、得点源として期待することはしていませんでした。ただ、現代思想に面白みを感じていたため、受験の最終盤、余力が余ったため、趣味として入試を解いていました。
漢文
– 漢文については、あるテーマがあって、それを飾るように、物語が書かれている、という認識をしていました。このテーマのところさえ見つけられれば、物語の詳細がわからなくとも、大枠の把握はできる、ということです。様々な問題文を読む(注:解くではない)ことで、説話や寓話のテンプレートなメッセージを理解し、新規の出題にも対応できるようにしていました。
▼数学観
– 残念ながら、自分には数学的才能がなかったため、数学は定石の集合体として捉える他ありませんでした。反復練習による身体記憶の獲得により対策をしていました。
▼化学観
化学は、理系科目の中で最も、知識・理論・解法の三拍子が揃っている必要のある科目です。知識が無いと問題文の反応の進行が理解できませんし、理論がないと記述ができません。解法がわからないと数値計算問題も厳しいでしょう。受験勉強の初期には、問題文の理解に必要な知識を入れ、その後理論・解法へと進みました。
物理に比べ、化学は様々な意味で細切れです。理論にしても、溶液を扱う時、個体を扱う時などで問われる考え方バラバラですし、問題にしても、(1)と(2)が独立なことは多々あります。実戦の上では、自分が解ける問題を見極めて、計算問題については計算量の少ないものから片付けていくなど、個々の小問を粘り強く見ていく力が必要です。
▼物理観
– 物理は、少ない物理法則が科目全体を貫いており、覚える量としてはかなり少ない類でしょう。そのかわり、少ない概念をどのように多様な事象に適応するかが問われる科目であり、とても多様な問題が入試で出題されます。そのため、ぶれない物理の世界観を持つことと、応用力を育てることが肝要です。
– “世界観‘と述べましたが、高校物理は、残念ながら見通しが悪い科目と言わざるを得ません。受験物理から少し範囲を拡張させて、微分方程式、マクスウェル方程式などを含めた“物理観”を作ることによって、より見通しの良い理解を得ることができます。
– 応用力については、様々な問題のパターンを解くに越したことはありません。特に、力学・電磁気学では無限かと思えるほど問題パターンがあるので、問題数の多い問題集を解いて、対応の仕方を学びました。
-物理は、“間違い”が他の科目とは独特です。第一に、積み上げ型の大問構成なので、一つのミスが次に響きます。加えて、犯すミスのパターンが絞られてきます。例えば、バネのちからの向きを間違えたり、v×Bで外積の方向を間違えたり、などです。自分が犯しやすい間違いのパターンを把握することで、間違いの連鎖を防ぐことができ、点数が安定するようになります。
– 最後に、物理はとにかく“解けなくなったら終わり”な科目です。つまり、(1)が解けないと、それ以降が解けなくなるのです。そのため、実践では見通しのいい問題から解いていくのが有効ですが、練習においては一見座標の置き方が見えにくかったり、状況把握が困難な問題を解くことが勉強になります。
▼英語観
– 自分は英語話者の帰国子女だったため、英語は最も点数のブレにくい科目で、得点源にすることができました。ただ、英語力自体はこれ以上伸びないことはわかっていたので、むしろその素の英語力を実際に得点にどのようにつなげるか、ということに注力しました。例えば、語句の並べ替え問題は英語力以上に“慣れ”がいうものなので、最終盤に集中的に勉強しました。他の大問については、費用対効果が低いと踏み、別科目の勉強に時間をあてました。
– 英語話者の帰国子女で一般入試を受ける人に共有したい認識があります。英語ができるということは、2つの点でメリットになります。第一に、英語が高い点数で安定するということ、第二に、英語にかける勉強時間を他の科目に注ぐことができるということです。受験勉強の早い段階でこのことを認識して、他の人とは違う点取り計画を立てると、比較的余裕のある受験勉強ができると思います。
▼模試観
– まず、大域的な模試の位置づけについて。自分は受験の年がはじまるまでに、「いかにして100点超え合格を果たすか」のロードマップを描いていました。その経過観測に活用していたのが模試です。合計の点数だけでなく、どのようにその点数を取るかまで考えて、もし伸びた・伸び悩んでいる科目があるのなら原因分析をして、次の模試にむけて軌道修正をしていきます。
– 次に、局所的な模試の位置付けについて。東大レベルの問題を2時間半ぶっ通しで解き、その環境が2日間続くということは、厳しいものがあります。緊張感のある環境の中で、その実践練習を行える場として模試は唯一無二の場として機能していました。
– 忘れてはいけないのは、模試と東大二次は別物で、問題のクオリティも東大入試のほうがはるかに高いということです。そのため、細かな問題についての復習は自分はあまりせず、大まかな自分の得意・不得意のみを見ていました。最終盤での演習でも、10年分ほど過去問を遡った後は模試ではなくクオリティの担保された京大・医科歯科大などのものを解いていました。
– 東大模試にここまで話を絞っていましたが、全国模試についても少し触れます。全国模試はどうしても問題の難易度が下がるため、偏差値・点数・順位は東大模試ほどあてにならず、相対位置の指標には使いませんでした。しかしながら、難易度が下がる分、“ミス”が大きく響いてくるので、自分の今の状態をみる、という意味では無駄な模試ではないと思います。
– センター模試は、(特に東進のものは)実際のセンター試験とは難易度がかけはなれているため、全く利用しませんでした。学力の指標にならず、実戦の練習にもならないと考えたためです。
▼塾観/予備校観
– 塾に通う最大のメリットは、(少なくとも受験において)その科目を極めた人の思考プロセスを生で追えるところにあります。たとえば、現代文での文章構造の把握の仕方、化学のミスの発見方法、物理の世界観、など。こまかな事柄を学びにいくというよりも、頭の使い方を学ぶ、という意識で塾には通っていました。
▼参考書観/問題集観
– 参考書の価値は、ひとえに自分の点数をどれだけ伸ばしてくれるか、につきます。評判がどれだけよくても、それが自分の勉強につながらなければ、無意味です。そのため、その時々自分が抱えている問題を明確にして、それを解決できる参考書を探しに、本屋に行っていました。
▼友人観
– 自分の「受験は自分との競争」観に立つと、友人は基本的にその競争で自分を助けてくれる存在です。ある科目で自分よりできる人がいた場合、積極的に勉強法や、その科目の世界観を聞きに行っていました。
▼学校観
母校には大変お世話になりましたが、受験の年に限れば、高校にはあまり勉強の要素を求めていませんでした。むしろ、友人たちとの会話であったり、彼らの使っている参考書の情報を得たり、など、ヨコのつながりを活用する場でした。
定期試験についても、全く対策を行わずに望んでいました。進学校だったので、カリキュラムは高2で終わっていましたので、高3の定期試験で出題される内容は受験勉強をしていればカバーできるものでした。ただ、受験勉強の進度の指標にはなると考え、学年順位と毎年の東大合格者数からだいたいの自分の位置を捉えていました。
▼部活観
受験勉強への起爆剤だと考えています。私は高2の秋に部活の全国大会があり、それまで勉強には全く手をつけていませんでした。勉強を忘れるほどあえて部活に熱中することで、受験勉強を開始した直後に、“伸びるって楽しい!”を体感できたことで、その後の勉強にはずみをつけることができました。
▼その他
「間違い」観
自分は病的にストイックだったため、ある問題を連続で間違えると、とても悔しく、勉強を続けられないほど感情が高ぶってしまう時期がありました。しかし、間違えた問題は、自分の伸びしろにほかならない、という認識をしはじめてから、落ち着いて間違えた理由を分析して、次回からどう考えれば正解を得られるのか、という建設的な方向に頭を動かすことができるようになり、間違いを活かせるようになりました。